前回述べたように、小名木川は扇橋閘門を境として大きく印象を変える。
水位が3m変わるということは、単純に水深も+3mになるということで、「小川」が「川」になるような印象。このあたりまでくると、「小名木川沿い」というより「清澄白河周辺」といったほうがわかりやすい。
駅の南側は次回以降に回して、今回は駅北側を散策。
まず行きたかったのは、前から気になっていた「田川水泡・のらくろ館」。
「のらくろ」は、戦後にアニメ化もされたけれど、人気を誇ったのは1931(昭和6)年から戦争が始まって内務省に「漫画」を禁止されるまでの10年間。だから、もちろんオンタイムで見ていたわけでない。でも『のらくろ漫画全集』という、10cm近くはあろうかというぶ厚い単行本がうちにあって、5、6歳のころ、数少ない愛読書の1冊だった。なので、歳のわりにはのらくろには愛着がある。
「田川水泡・のらくろ館」があるのは、森下文化センターの中。接する高森公園から文化センターに近づいていくと、その前に気になる建物が。妙にモダニズム。
これは「都営高橋アパート」。
竣工は1957(昭和32)年。
幹線道路側は室内バルコニーだろうか。南面するガラス張りのバルコニーなら相当明るいはずで、竣工時にはかなりモダンな建物だったに違いない。ただ、共用部分を少し見ただけだが、住人は少なそう。築60年を過ぎて、取り壊しが迫っているのかもしれない。ちなみに、おそらくこの「高橋」は「たかばし」と読む。「高橋」はすぐ近くにある、小説や時代劇でもおなじみの橋で、商店街名などにも名を残している。
さて、改めてのらくろ館。文化センター1階の奥に設けられている。入り口では大きなのらくろ君がお出迎え。
展示は、作者である漫画家・田川水泡の紹介パネルとのらくろの原画などが並ぶ。のらくろが、最後、喫茶店のマスターになっていたのは初めて知った。
印象深かったのは、生前の田川水泡のインタビュー動画。雑誌を買えない貧しい子供たちにも勇気を与えるように野良犬を主人公にしたこと、1色刷りの紙面で主人公を目立たせるために1匹だけ黒くして「のらくろ」にしたことなどのエピソードが語られていた。
のらくろを楽しんだあとは、のらくろの幡やのぼりの並ぶ高橋夜店通りを西へ。
やがて日本画家・伊東深水生誕の地の案内板が現れ、その前に深川神明宮が立っている。
地名の深川は、江戸幕府草創期、この地を開いた深川八郎右衛門に由来する。その八郎右衛門が信仰したのが屋敷内の小さな祠。それが現在の神明宮の起源なのだそうだ。
お詣りして、さらに先に進むとあるのが江東区芭蕉記念館。
1981年竣工。設計は創造社。
芭蕉は全国を旅しているから、あちこちに「ゆかりの地」があるのだが、江東区、というか深川は芭蕉が長く暮らした地として芭蕉推しにも力を入れる。
芭蕉は、1680(延宝8)年に日本橋から深川に移り住み、「奥の細道」などの旅路も深川から出立した。そして1694(元禄7)年に旅の途次の大阪で没するまで、江戸ではずっと深川で暮らした。有名な「芭蕉庵」があったのもこのあたりだ。
芭蕉記念館は2、3階が展示室で、常設展示のほか企画展示も行っている。ただ、展示室と同じくらいの比重で会議室や研修室が用意されていて、俳句愛好家たちのサロンとして活用されているようだ。
室内展示品には、付近で発見された石製の「芭蕉遺愛の蛙」もある。庭園には、芭蕉庵を模した芭蕉堂も置かれる。
庭園から、墨田川側に出て川沿いに歩くと小名木川と合流する手前に芭蕉記念館の分館がある。その屋上の展望庭園は、芭蕉像が置かれた観光スポット。芭蕉像を入れつつ、「東京でもっとも美しい橋」ともいわれる清州橋を望むアングルは誰でも撮るおなじみのものだろう。
分館のすぐ近くには芭蕉稲荷神社もある。
江戸時代、「伊勢屋稲荷に犬の糞」といわれるほど江戸に稲荷神社は多かったが、この稲荷ができたのは1917(大正7)年。意外に新しい。
同年、台風による高潮被害にあった後、ここで前述の「芭蕉遺愛の蛙」が発見され、愛好家たちがその石蛙をご神体として祀ったのがこの神社の起源だそうだ。
投稿者 ichikawa : 21:21
江戸時代、「塩の道」と呼ばれた小名木(おなぎ)川。その川沿いはいま、どうなっているのだろう。
旧中川と合流する地点から大横川と交差する地点まで、川沿いに遊歩道が整備されている。
「親水空間」という言葉もすっかりおなじみになったが、ここでも遊歩道と川の距離はかなり近い。ただし、一部の場所を除けば遊歩道と川は柵で厳然と区分けされていて、足元の水に触ることはできない。責任を問われたくない人たちが大好きな「安全・安心」。。。
旧中川から清澄白河方向に歩いていくと、まもなく「塩の道橋」が現れる。遊歩道整備は、江戸時代を想起させる石垣風になっているのだが、この橋も「小名木川景観整備との調和を図る外観として、木を感じさせるデザイン」(江東区のHP)となっている、らしい。色は木っぽい、かな。
興味深かったのは、途中にある「小名木川旧護岸」。
小名木川沿いは、いわゆる「ゼロメートル地帯」であり、工業化に伴う急速な地盤沈下などもあって、対処療法的に何度も護岸がかさ上げされた。
現在、小名木川の水位は干潮時東京湾平均水位からマイナス1mに設定されているが、そこに至るまでの護岸の歴史の断片がここに保存されている。
2019年の豪雨災害時、東京は多摩川の堤防決壊による被害を受けたが、ゼロメートル地帯を含む東部地域では大きな被害は免れた。それも、延々と続けていた、そして今も続いている治水対策の成果なのだと、この旧護岸を見て改めて思う。
小名木川には17の橋が架かっている。
印象としては墨田川に近い側の橋が古く、東に進むにしたがって新しくなる。わずか5km足らずでも、市街地に近いほうから橋が整備されていったことがわかる。
新しい橋は「塩の道橋」のようにほとんどがいわゆる桁橋だ。
橋の種類については、あらためてまとめたいが、簡単にいうと向こう岸まで丸太を2本渡し、丸太の上に板を並べて渡れるようにしたのが桁橋。この丸太を「桁(けた)」と呼ぶ。もっとも原初的な構造の橋だ。
横十間川より東側は川幅も狭いので、桁橋で十分なのだろう。そんななか異彩を放っているのが、鉄道ファンにはおなじみ(らしい)の鉄骨トラス橋「小名木川橋梁」。
現在は、小岩駅と越中島貨物駅を結ぶJR東日本の総武本線の鉄道路線、つまり貨物線の線路橋である。
竣工は1929(昭和4)年。
設計は鉄道省。
開通当時は「小名木川駅」(2000年に廃止)があり、列車で運んだ荷を船に積み替える結節点だったという。
ちなみに現在でも一日2往復、ディーゼル車が走っているらしい。運が良ければ川を渡る車両を見ることができるかもしれない。
トラス橋の小名木川橋梁を過ぎると、やがて小名木川は横十間川と交差する。人工河川らしくきれいな十字を描く川の交差点には、ユニークなX型の橋・小名木川クローバー橋が架かっている。
架橋は1994(平成6)年。
川を挟んで向かい合う4つの地区(猿江・大島・北砂・扇橋)を結ぶことから「四つ葉のクローバー」の連想で命名されたんだろう。車は通れない、歩行者・自転車専用橋で、交差部分は石畳で四つ葉のクローバーがかたどられている。でも、知っていないとその場ではたぶんわからない。グーグルアースで見ると、なんとなくそう見える。
さらに西へ進むとトラス橋である小松橋(1930年)が見えてきて、その先に何やらガラス張りの箱が宙に浮いている。近づいてみるとこれが扇橋閘門。
現施設の竣工は2019年。
設計は東京建設コンサルタント。
小名木川はここで最大3m水位を変え、川幅も広がって川の様相が一変する。
扇橋閘門自体がつくられたのは1976(昭和51)年だが、耐震補強工事に伴い上屋も建て替えたのだろう。
訪れたときには、まだ周辺の外構工事中で、あまり近づくことはできなかった。
工事は2020年半ばまでの予定だから、その整備が終れば真新しい建築と珍しい閘門機構が楽しめるようになるだろう。
小名木川クローバー橋。これは箱状の桁をもつ箱桁橋。構造的には珍しい、らしい
Google earthで見たところ。かすかに中央のクローバーがわかる(©Google)
扇橋閘門。手前が隅田川側になり、小名木川東側の水面より3m水位が高い。この水位差を奥に見える閘門とのあいだの閘室(こうしつ)で調整する
閘門脇に立つ説明板に描かれた川と陸の断面図。横十間川、旧中川は小名木川東側と同様、水位は―1m。江東三角地帯東側の地盤がいかに低いかがよくわかる
投稿者 ichikawa : 13:37
鄙びた田舎町だった江戸を、家康は百万人が暮らす水の都に変えた。
その過程で、行徳の塩を安全に早く運ぶため、現在の隅田川と旧中川の間を小名木四郎兵衛に開削させた。これが小名木(おなぎ)川。このことから小名木川は「塩の道」と呼ばれた。現在の地下鉄の駅名でいえば、都営新宿線・東大島駅近くから東京メトロ・清澄白河駅周辺までおよそ5キロ弱である。
町の整備が進み、河川を使った流通が盛んになると、小名木川は塩のみならず多くの人や物資を運ぶ大動脈として機能するようになる。
陸上で関所が置かれたように、海上・河川交通が盛んになると河川の要衝にもさまざまな監視を行う船番所が置かれた。旧中川と小名木川が交わるところに置かれたのが「中川番所」。その歴史をわかりやすく教えてくれそうなのが、前から気になっていた「中川船番所資料館」で、今回はまずこちらから。
中川船番所資料館は、東大島駅前にある大島小松川公園わんさか広場に登ると、公園の向こう側に見える。
常設展示室は3階。中川番所の再現ジオラマや「江戸から東京へ」と題した展示で、水運の歴史を学べる。東から来て江戸市中に入ろうとする町民(農民?)と、それを検査するお役人のやり取りを再現した録音の音声が定期的に流れるのだが、一隻一隻こんな交渉をしてたのかなぁ。
陸上の関所は並んで待つのがなんとなくイメージできるが、川の関所でも船が順番待ちしていたんだろうか。当時はもっと川幅があったのか。空想が広がる。
なおジオラマには、発掘調査で発見された実際の石垣も使われているらしいので、マニアックに探してみるのも楽しい。
資料館の前には、「旧中川・川の駅」がある。これは「新たな水辺のにぎわい拠点として」江東区が整備したもので、言ってみれば現代の船着き場ということか。災害時の防災拠点としても機能するらしい。「水陸両用バス スカイダック東京 とうきょうスカイツリーコース」の一部となっていて、陸上を走ってきたバスがスロープからそのまま川へ「スプラッシュ!」するのが一番派手なアトラクションのようだ。
旧中川・川の駅から小名木川方向に向かったところが「中川番所跡」で、そのまま小名木川沿いに歩くことができるのだが、せっかくなので一旦戻り、旧中川沿いに立つパラマウントベッドテクニカルセンターを眺めつつ、新中川大橋を渡って対岸にある「風の広場」へ。
「風の広場」は、「大島小松川公園」という、旧中川と荒川のあいだにある巨大な公園の一部。現代アートも展示されている。
広場の中ほどにあるのは「旧小松川閘門」。
閘門は「こうもん」と読む。
こうもんというと、お尻の穴か水戸黄門くらいしか思い浮かばなかったのだが、一言で説明すると船のエレベーター。水位が異なる二つの河川の間に堰を二つ設け、この堰の中央に船を入れて水位を調整する。
有名なパナマ運河と同じ仕組み。
かつて周辺には、この小松川閘門のほかに小名木川閘門、船堀閘門という三つの閘門がつくられていた。旧中川側に二つ(小名木川閘門と小松川閘門)、新中川(現在の中川)側に船堀閘門。
これは、構想から20年近くの歳月を費やした荒川放水路(現在の荒川)が1930(昭和5年)に完成したことにより、既存川との水位調整が必要とされたためだ。
したがって小松川閘門の竣工も同じ1930年。
設計は内務省土木局東京土木出張所荒川下流改修事務所。
1976(昭和51)年に廃止されたようだが、水位の変化などで閘門自体が不要になったのかもしれない。その後、一時化学工場などが建っていたらしいが、1997年に大島小松川公園の一部として風の広場がオープンしている。
というのが概略で、現地では特に疑問も持たず、「移築して保存している」と思い込んでいたのだけれど、後から調べてみるとどうやら移築ではないらしい。現地の説明書きにも「全体の約2/3程度が土の中に埋まっている」とあったが、閘門の周辺に大規模な土盛りをして公園をつくったとは考えもしなかった。まさに「生き埋め」状態なのか。
建築では考えられないが、土木遺産ではこういう保存(?)もままあるのかな。
旧中川沿いのパラマウントベッド テクニカルセンター。2006年。清水建設。
旧小松川閘門。ヨーロッパの城壁を思わせるような堂々たるデザイン。頭頂部にひょんひょん伸びる雑草がちょっと悲しい。いろいろなサイトで紹介されているが、ほぼすべて雑草付きなので長年この状態なんだろう
土盛りされた風の広場を降りて、少し河口側にあるのが「荒川ロックゲート」。これが「堰」所となる現代の閘門だ。
旧中川と荒川が合流する地点に設けられている。
小松川閘門が用済みになったように、周辺の閘門は一時期すべて廃止された。
ところが1995年の阪神・淡路大震災で水上輸送の重要性が見直され、東京の大災害に備えて新しくつくられたのがこれ。2005年竣工という。
緊急時(災害時)の水上輸送が前提だが、クルーズなどで通行することも可能で、屋形船などで体験することもできるようだ。
ちなみにゲートには二つとも外階段があって、日中は開放されており、誰でも一番上まで登ることができる。荒川側のゲートの最上部から見渡す風景は絶景である。
投稿者 ichikawa : 22:10